英語と私(3)

  • 2009.12.01 Tuesday
  • 10:51
By冨永正之

こうして1970年、27歳の時に在日米国大使館に奉職します。部署はUS Information ServiceUSIS)という米政府の独立機関(現在は国務省に統合されています)で、大使館では広報・文化交流局という名称を使っていました。ここは日本のメディアに対するサービス、講演会、セミナー、シンポジウムなどの広報・啓蒙活動、人物交流などを行っており、私が採用されたポジションはプログラム・サービス部の翻訳・通訳職というものでした。

 

当時の直属の上司は、バイリンガルの日系二世で、米政府で働く前はサンフランシスコで日系人向けの邦字の新聞記者をしていた方でした。それまでたいした通訳の経験がなかった私は、最初翻訳の仕事をさせられました。ここでの主たる業務は、米大統領の一般教書、演説、声明、記者会見、その他政府の発表や文書などを即座に翻訳して日本の新聞社に配給して使ってもらうというものでした。

 

ここで私は2人のベテラン翻訳家と共に翻訳の仕事を始めます。それまで本格的に翻訳をした経験がなかった私は、上司や2人の先輩の指導で正確に英語を読み取り精密な翻訳をする習慣を叩き込まれました。ここでの翻訳は多少直訳的ではありましたが、あくまでも細大漏らさず正確に訳すというスタイルで、この翻訳の経験が私の通訳のスタイルの基礎になり大きな影響を及ぼしたと思います。ですから私は翻訳と通訳は同根で、相乗効果が大きいと考えています。

 

翻訳を1年ほど行ったあと、上司の勧めで通訳を始めるようになります。当時米国大使館には、アポロ月面着陸のテレビ中継同時通訳で全国的に知られるようになった西山千氏がまだ働いておられ、同氏から通訳の手ほどきを受けました。1972年頃だと思いますが、多くの英語関連の著作のあるM氏が私と同じポジションに採用され、私たち2人は西山氏に鍛えられました。M氏は1年ほどで大使館を辞められました。

 

USISでの通訳は、アメリカの専門家を講師とする講演討論会、セミナーなどが主で、テーマは政治、経済、貿易、金融、国際関係、軍事、安全保障、社会問題、芸術、文学など多岐にわたり、内容はかなり高度で専門的なものでした。1971年頃から翻訳から通訳の仕事に移行していったのですが、最初は逐次通訳だけをさせられ、2年目頃から徐々に同時通訳もさせられるようになります。

 

最初に逐次通訳をした時は緊張のため舌がもつれてよく話せなかったのを覚えています。日系二世の上司は最初数回私の通訳を傍聴し、なぜか合格点を与えてくれたようで、通訳の仕事が増えていきました。この上司はなかなか厳しい方で、1970年代に私と同じ通訳職のポジションに4〜5人の方が採用されましたが、皆1年前後で辞めていかれました。

 

同時通訳を始めた頃は、私の英語が余りにも未熟であったため、英日だけを担当していましたが、次第に日英もするようになります。同時通訳に慣れるまでどれほどの期間がかかったのかよく覚えていませんが(最後まで慣れなかったと言ったほうが正確かもしれません)、最初の1〜2年は悪戦苦闘の連続だったと思います。何度も絶望し止めようと考えました。しかしそれまでの仕事が全て長続きしなかったため、大使館の仕事も途中で投げ出してしまえば自分は何も最後までやり遂げられない人間になってしまうのではないかという不安と恐れが強かったためか、なんとか止めずに定年まで勤め上げることができました。

 

次回は米国大使館時代の私の英語勉強について書いてみます。

 

 

プロフィール

冨永正之
1997年よりサイマル・アカデミー通訳者養成コース・同時通訳科講師

青山学院大学英米文学科卒業。在日米陸軍司令部、日本航空機製造で勤務後、1970年から2004年まで在日米国大使館広報・文化交流局で通訳官として勤務し、米政府高官、駐日米国大使の通訳や、民間の専門家を招いてのセミナー、講演会などの通訳を務める。

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